いよいよ 旅も 最終日。
今日の深夜便で日本に帰国。
深夜便に乗る日の一日は長くて考えるだけで嫌。
長い一日が始まった。
まずは空港北、ランシット手前にあるアジアエアポートホテルのショッピングモールに行く事にした。
このホテルはバンコクになじみない頃=30年前には既にあったと思う。
まだ旅やバンコク、市バスに乗り慣れてない頃、モーチットから長距離バスに乗った時にこの前を通り、ガイドにも載ってないこんな場所を歩いてみたいなあ、と思ってた。
その頃はここに自力で来ることがすごく難易度が高いと感じてた。

初めてここに来た時、あのいつもバスから見ていた風景の場所に降り立ったんだ、とすごくうれしかった。
別に何がある訳でもないし、今考えるとすごく簡単な事なんだけど。
でもそういう事が旅の楽しみだったのかもしれない。
ショッピングセンターの中は電脳街。20年程前からたまに来ているが閑散しているのがいい。
今はAmazonで安い電脳製品が日本でも簡単に買えるし、ここで買うものは何もない。

昔は安くて何か面白そうな物を探して歩くのも楽しみだった。
ここではたまに海賊版音楽CDやDVDを買ってた。
PC関連の海賊版ソフトのインストールとかもやってもらっていた。
なんかそういうのを買ったりすると旅代を少し補填できている感じがしていた。
それも旅の楽しみの1つだったのかも。
こう考えると、インターネットで色んなものが完結できる便利な世の中になり、旅の楽しさは逆にどんどん減っている気がする。
その後は、ドンムアン横の空軍博物館へ。

今まで行ったこういう系の博物館で一番つまらなかったかな。
その後は近くのショッピングセンターへ行くも狭くて息苦しい。
時間つぶしに2時間映画をみる予定だったが、当然のごとくみたい映画もない。
まだまだ時間があるので再びバスでLak Siに移動して、最終的にKFCへ。
空いているKFCはすごくいい。
まだまだKFCは自分とって御馳走であり、頻繁にはいけない特別な場所である。

日本人の多くは牛丼屋とともに入りやすく、気軽に安く食事が出来る場所であるとは思うが低所得者にとっては気軽に入れない場所。
これって貧乏人ならではの感覚であり、この程度で贅沢な気分を感じれるのは逆に幸せな事なのかもしれない。
宿に戻って荷物をピックアップ。
ドンムアン空港までは徒歩で行き、無料のエアポートシャトルに乗った。
当日初のスワンナブーム空港発の航空券があれば乗れるようだった。
空港までは丁度1時間。バンコク内の高速道路のバス移動も良いものだ。
窓の外を眺めてると街ごとに色んな思い出が蘇ってくる。
思い出というか、今まで泊まった定宿があったなって程度か。
この区間ですら5カ所位あったかな。
時代とともに定宿も移り変わっていった。
こう考えると、バンコクの至る所に定宿があったのだな。
今回はエアポートシャトルに乗れず、公共の554番バスで移動する事を考え行動していたので、出発4時間前位に着いてしまった。
お腹が空いたので、去年深夜バンコク到着時に行った駐車場下のほぼ空港労働者専用のセブンへ。
去年 の 旅の始まりはここだった。
そして駐車場端のコンクリート壁の上に座ってセブン弁当とペプシの夜食。
空港内は人が多くて息が詰まる。

はたから見るとかわいそうな貧乏人に見えるかもしれないが、雰囲気含め、これで贅沢な瞬間と思えてしまう低所得50代労働者クラスの人間の性。
憐れな事なのか、幸せな事なのか。
今回はタイに2ヶ月ほどいた。
海外に2ヶ月いた感覚はないし、旅した感覚もない。
日本にいる前に、バンコクをゴールにしたことが新鮮に感じた。
いざ バンコクに来てみると 特に何も感じなかった。
4泊したが長く感じたし 早く終わって欲しかった。
日本に帰りたくないけど、早くこの旅を終わらせたいというよく分からない感じ。
まあ 日本 帰って3日経てばまた来たくなるのは分かってるけど。
今回は ホテルこもり生活ではなく、なるべく 移動を増やして旅っぽいことをした。
約30日かけてバイクで ぐるっと回った。
その後はチェンマイからバンコクまで、鉄道バス ミニバンを乗り継いで移動の旅をした。
正直、旅した感じもしないし、満足感もないし、何かやった気もしない。
旅の楽しさが戻ったって事は全くない。
ふと思った これが 旅が楽しかった頃の学生時代だったらどうなるだろう。
ちょうど 夏の夏休みの時期と重なる今回の旅期間。
今が学生時代なら、「とうとう旅も終わって日本へ帰国か。」「帰ったら新たな学期の授業が始まるのか。」「日本に帰ったらまたバイトして次のお金を貯めよう。」
という、もう少し旅をしたかったという気持ちと、また次旅に行く日まで日本で頑張ろうという気持ちで旅を終えれたのかな。
やっぱり「束縛」→「自由」→「束縛」の繰り返しが必要なのかもしれない。
旅の楽しさを思い出す為には、「程よい束縛」つまり「程よい労働生活」が必要なのだろうか。